生い立ち/ストーリー

幼少期の奇跡

 

昭和35年10月本巣市(旧糸貫町)で男兄弟3人の次男と78年前から続く大工として生まれ、

この年になる現在まで一度もこの本巣市を離れることなく過ごしてきました。私の父は農家の9 人兄妹の唯一の男子として生まれ、

中学を卒業してから 70年近く大工をしてきました。

地元の中学(旧高等小学校を国民学校高等科)

卒業ののちに地元の大工さんに弟子入りをさせてもらい大工を始めたそうです。

そのころは第二次世界大戦の終戦とも重なる頃で

もう少し早く生まれていれば、兵隊として戦場に行っていた可能性もあり

私もヒョットしたら居ないかもしれないなと思います。

父は大工仕事の傍らで農作業をこなし、

一年中ほぼ休みなく働いていました。

特に父は、二十歳のころに大工として独立してからは

建設会社や工務店の木工事をほぼ100%下請けの工事をいただいていましたが

何と車の免許を49歳に初めて取得するまで

どの現場も自転車と公共機関を利用して現場まで通っていました。

大きな道具はそこの元請けの方に運んでもらったそうです。

そんなこともあり

私が子供のころに家族で遊びに行ったというような思い出はあまりありません。

ましてやうちの父は、現代の一般的な父親像とは大きくかけ離れ

話づらく寄りつき難くいイメージが強く

そんな父を毛嫌いするところが私自身にありました。

子ども時代にあまり良い思い出がない中で

強く印象に残る出来事がありました。

家族でお墓参りに行った帰り道。

自転車を調子よくこいでいると

突然ブレーキが利かなくなり、

勢いのついたまま大通りの交差点に進入。

「あぶない!!!」

目の前を通り過ぎる定期バス。

なんとか衝突はギリギリ避けられたのですが、

バスの側面に頭をかすめた後、

交差点の角にあったタバコ屋のショーケースに激突!

急ブレーキで止まったバスの運転手も降りてきて、

家族も皆がもうだめだ……と思った事故でしたが、

奇跡的に大きなたんこぶが頭にひとつできただけで済み、

命拾いをしました。

少しでもタイミングが違えば、

今ここに私はいないと思うと、

それからも何かがあるとそのことを思い浮かべては

ぞっとしながらも

自分は生かされているのだなと

感じることがあります。

また、小学生の頃から私は運動音痴。

女の子にも負けるくらいに足が遅かったので、

運動会の50メートル走が大嫌い。

毎年運動会が近 づくと、

健康だけが取り柄の自分が

「風邪を引けば欠席できる」

と思い、風邪をひくことを祈っていました。

この運動音痴に関しては結局中学時代も続き

私にとってはスポーツは本当に縁遠いものに感じました。

それでも、私にも自慢できることがありました。

小学 4 年から中学3年までの6年間、

新聞配達を続けたことです。

朝の5時に起きての配達は、大変なことが多く

冬の雪の日は、自転車の車輪が回らなくなり動かなくなってしまい

学校を遅刻したこともありました。

それでも、

小学生の時は毎年新聞少年として表彰され、

名鉄特急のロマンスカーに乗って 、

名古屋の御園座に行けることが嬉しかったことを憶えています。

そんな運動嫌いの私は

ある時からふとした事からなぜか気象にやたらと興味を持つようになりました。

空を眺めるのが好きで、

将来は気象台で働きたいと真剣に思っていました。

このことについて多くは語りませんが、

家族からは、

「お天気博士」

と呼ばれていました。

夢の消滅と新たな思い

中学生になると、

自分の将来の事を話題にすることが多くなりましたが、

将来は気象庁で働く

という思いは、

ただ好きだけでは叶うものでは無く

私のような勉強嫌いには到底無理なことがわかり始めていました。

そして、私にとって天気の事は仕事では無く趣味的なものとなり

いつの間にか気象庁の夢は消滅。

また中学生になってからは

良く父から、

「休みに現場に手伝いに来ないか?」

と言われさほど予定もなく自分の休みにはついて行くようになりました。

それまで父の大工という仕事に見向きもしなかった私。

むしろ、周りのほとんどがサラリーマンのお父さんに比べ、

どこか引け目を感じ避けていたのが正直な思いでした。

けれども手伝いで父について行くようになってから

次第に見方か変わってきました。

当時の父は、仕事の元請けからの受けが良かったらしく

大変に良いお客様の仕事をいただいていたようで

当時の私の家に比べて、当時の私の目で見ても

明らかな立派な建物も建てている印象でした。

真剣な表情で仕事をする父の姿を間近で見た時、

大変の誇らしい気持ちが湧いてきました。

そんなある時に、いつものように休日に

仕事に着いて行った現場が

今回は、元請けからいただいた仕事がアパートだったのです。

これまで、休憩はお客様がお茶を出していただき

私も一緒にいただくのが唯一の楽しみだったのですが、

この現場は、当然ですがお客様も居ないしお茶も出ない。

現代の集合住宅とは違いかなりの安普請といったところでしょうか。

大工手間も安いそうで「あまり手間は掛けられないものだと」

父は言っていました。

でも、その時に言った父の言葉は、

「ええか、

安い家に住む人も立派な家に住む人も、

大切な家であることは同じだから

大工として家に対する思いは同じでなけなあかんのや。

その人にとっては一生に一度の家やで、

ここは予算が無いでと

手を抜くのはあかんぞ!」と、

父が仕事の手を休めることなくボソッと言った。

まさしくお客様目線での言葉が

武骨で職人気質の父のから想像できないことばで言ったのです。

「あー、家って作るだけではダメなんだ。

当然、良い仕事をしなくちゃいけない。

そして、何よりお客さんに対する思いが大事なんだ。」

それまで、父のイメージは、正直悪い部分が多かった。

でもそうじゃ無かった。

大工ってすごく奥が深い仕事なんだ。

そしてそれをやっている親父ってすごいんだ。

そして、

『自分が建てた家でお客さんが喜んでくれたらいいなーと!』

そのころに自分が、子供なりに思い始めたのです。

「僕も大工になりたい!!!」

この気づきが自分も大工へと向いたキッカケになったのだと思います。

中学2年生になった時です。

ついに両親にその思いを伝えました。

さらに、

「早く大工の仕事を覚えたいから高校は行かない」

とまで言って大工になることを伝えました。

喜んでくれると思ったのに

両親から良い返事は無く、

逆に父からは、

「この仕事は大変だから継がないほうがイイ。」

とまで言われる始末。

「どうして?!僕が仕事を継ぐのは嬉しく無いの?!」

と疑問を持ちながらも、

親の言葉を受け入れることなく、

大工になりたいという思いは変わりませんでした。

結果としてそれほど時間もかけずに両親の認めてくれました。

ただし条件として

「高校だけは行きなさい!」

と諭されて、 工業高校の建築科に進学。

弟子入りするも大きな挫折

その後無事に高校を卒業し、

そこからすぐの 3 月 10 日。

地元で評判だった、

社寺建築大工の棟梁のお宅に住み込みの弟子入り

そこから本格的に大工としての道に。

それまで父の手伝いはしていても、

ほとんど大工道具は触らせてもらえなかった私にとって、

弟子入りは本当に過酷なものとなりました。

親方からは毎日のように、

「てめえは本当に不器用な奴やな!!!」

と怒鳴られ、 悔し涙を流しながらの日々が続きました。

当時近は私のように大工になる者が少なく、

身近に気軽に話を聞ける仲間もおらず、

段々自分の立ち位置が解らなくなり、

将来に対する希望を無くしていきました。

そんなある日、

和室の貴重な天井板を切り間違えてしまい、

「申し訳ありません!」

と、謝るものの親方が激怒。

「もう今日はこれで仕事は終わりや!!!」

と言いそのまま軽トラに乗って帰宅。

その車中で、

「青木くん、この仕事は向かないから辞めたほうがいいな」

とボソッと言われ、 大声で叱られるよりも辛く自分に刺さってきました。

誰かに相談することも出来ず、

「本当に自分はダメだなんだ……」

と思った私はその夜に親方の家から抜け出し実家に帰り、

泣きながら 、

「お父ちゃん、もう僕 大工辞めるわ……」

と弱々しく伝えました。

その時きっと父は、

もう少し頑張れと言ってくれると思ったのですが、

出てきた言葉は、

「そうか、大変やったな……」

その言葉で決心し、

伝えて大工を辞めました。

再スタート

その後は何をするでもなく、

だらだらと過ごす日々が続いていたある日。

気晴らしに仕事についてこないか?

と父に誘われ、

何気なくついて行きました。

父が仕事をしている後ろ姿を見ているうちに、

ふつふつと蘇ってきた思い。

一度は諦めた大工の道でしたが、

20 歳で大工として再スタート。

親に教わった大工は出来損なう

と当時は言われていましたが、

絶対にそうはならないぞ!

という強い思いで、

2 人目の親方として父について行きました。

私が最初の親方の元で 2 年も続かなかったことは、

本当に恥ずかしいことだと思っています。

でも今思うに、

仕事を始めて間もなく味わった大きな挫折が、

自分に謙虚さを植え付けてくれた

その後の人生の大きな糧になっていると実感しています。

3人目の師匠

父の背中を見ながら大工として修行を積み、

順調に仕事をこなす事ができるようになった26歳の時。

ある講演会の講師の話しの中で、

建築に携わる物が、お茶(茶道)やお華(華道)知らな いようではいけない

と言ったことが頭を離れず、

その後すぐに近くのお寺に習いに行くことになったのですが、

そこで想像もしていなかった出会いがありました。

その方は、

社寺建築や茶室などの数寄屋建築   に大変詳しい方で、

それを縁に大工仕事の指導をしていただくようになりました。

社寺建築はもちろんのこと、

あまりチャンスがない茶室にも携わることができたため、

大工の技術がとても磨かれ、

その後の仕事の幅が広がりました。

まさしく3人目の師匠です。

こうして振り返ると、

良い人、

良い仕事に恵まれてきたとつくづく感じ、

とても感謝しております。

運命の出会い

地域との関わりと運命の出会い

仕事と共に地域への関わりも増え、

青年団、消防団、建設関連組合と色々な団体に所属。

青年団では当時の本巣郡の青年団長、

消防団では副分団長を務め、

建設関連組合では今も役員として携わっています。

それぞれの団体で様々な活動を通し、

とても多くの経験と学びが得られましたが、

私の人生にとって最も大きかったのは、

妻と出会いでした。

当時、職人はお見合いでしか縁がなかった環境の下、

運命的に出会うことができ、

2年間付き合った後に結婚。

結婚で家族を持った使命感からか、

今のままの一職人ではいられないと感じ、

大工の下請けから元請けへの思いが高まってきました。

まずはその準備として、

建築士

級施工管理士

宅建取引主任

インテリアデザイナー

の資格を次々と取得しました。

これからはパソコンが使えなくてはと思い、

パソコンも購入。

初めはソフトがなければ何もできないことすら知らないレベルで、

操作が身につくまでとても苦労しましたが、

還暦を超えた今でもしっかりパソコンが扱え、

本当に良かったと思っています。

元請けへの転換

下請けからの脱却

元請けへの思いが高まった背景は、

結婚以外に下請け仕事で経験した数々の出来事にもあります。

他の大工の現場でクレームが発生した時に、

その手直しを頼まれることがよくあります。

そんな現場に行ってみると、

確かに仕事の悪さはあるのですが、

それらはクレームになる前に処理できたものも多く、

大工や現場監督は何をしていたのだろうと思うことばかり。

当然お客様とのコミュニケーションもとれていません。

不機嫌なお客様を見ながらの修理は嫌なものですが、

何よりお客様が気の毒でなりませんでした。

また、下請けの現場でお客様から、

直接頼めませんか?

と尋ねられることが時々ありました。

しかし、元請け会社からの指示でない場合は、

どれだけお客様のためになると思っても、

お断りをしなければいけない

というのが下請けのルールなのです。

下請けの仕事には、

ここから先は入れないという大きな壁

があり、

どんなに強くお客様のことを思っても、

それを伝えられない部分が多くあります。

やはり本当にお客様の幸福を思えば、

出会いから引き渡し、

そしてメンテナンスまで、

しっかりと対面で携わらせていただく

そう確信。

これが下請けからの脱却の背景です。

家づくりの喜び

そんな思いで元請け会社へ移行。

現在は順調に新築工事とリフォーム工事のご依頼をいただいております。

特に、以前お世話になったお客様が連絡をくださり、

新たなお客様をご紹介いただけた時は、

本当にありがたく、

心の底から喜びを感じます。

私が提供した家づくりが本当に良かったのだと確信でき、

喜びがこみ上げてきます。

これが本当のお客様との関係なのだと実感します。

これからも多くのお客様の生命と財産を守るべき住まいに携わると思いますが、

住まい手であるご家族様から 、

良かった

といつまでも言っていただけるように、

大工として培った知識と技を礎に、

今後より一層お客様の幸せのための家づくりに邁進して参ります。

 

 

株式会社青木建築 代表取締役 青木茂生

 

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